16.経験があるということ

 組織を運営する上で、昇格や適材適所を目的として人物評価を行う場合、その評価基準の中のひとつに「経験」があると思います。
それでは何をもって「経験」と判断をするのでしょうか?

 経験という項目を評価項目として採用する際、経験を評価する基準や方法について様々なご意見があると思いますが、その様な場合、私は「どのような修羅場を、何回くぐったか?」を評価基準としています。 ここでいう「修羅場」をもう少し砕いて表現すれば「ニッチもサッチ」もいかない状況ということ。
 つまり今まで出会ったことのない出来事や環境であったり、過去に出会ったことはあるが、その当時と比べ「人・物・金・時間」などのように解決に必要と思われる条件が十分なが揃っていない、”今の自分のままでは解決できない”状況であり、そして「どのような」とは自身の経験したことと、現状の隔たりの大きさを表してます。 「何回くぐったか」とは本人がその「修羅場」に真摯に対応をした数です。(対応をした結果が思わしくなくともそれはそれで1回と数えます。)

 時々、社員の評価で社員の経験が話題になると、「あの方はこの仕事をもう~年も担当しているので、充分な経験を持っている」と評価する方がいらっしゃいますが、果たしてそうでしょうか?
 長い間、その仕事についていたとしても、修羅場に対する態度によりその修羅場が経験となるのか否か、評価は分かれると考えています。
修羅場に臨んでも、自らその修羅場に関与せず、他人任せであったり、責任を回避する行動をとっているようであれば、それは「修羅場をくぐる」ことにはならないでしょう。
問題解決に関与していない以上、自分から問題解決に働きかけをしている可能性は低く、経験とはならないというのが私の考えです。その様な態度で如何に多くの修羅場に臨んだとしても、経験を積んだこと、つまり同じような事態が生じても自ら解決をする実力をつけたとは判断できません。
 またどんなに大変であろうと、今までの解決方法を踏襲するだけで解決が可能なのであれば、その状況は忙しいだけで修羅場とは考えません。
 質が悪い場合には「修羅場」を察知することに血道をあげ、自分自身がそれらの修羅場にかかわらないようにできる限り事前に回避しようと行動します。
 それに比べ常に修羅場に自ら飛び込み、それらの修羅場乗り越えよう全身全霊で対応をしている方はたとえその仕事を担当して2~3年であっても、経験を積んでいると考えられます。 修羅場を迎え撃つ行動をとるのかそれとも避けようとするのか、その行動の違いは本人の修羅場に対する意識の差、価値観の差から来るのでしょうがは、経験という基準で見れば大きな差がついていると思わざるを得ません。

 合併における様々なプロセスはある意味、修羅場の連続でありそしてそれは修羅場の宝庫であることを意味します。
そのような状況では、本人が望もうが、望むまいが本人の意思に関係なく、修羅場に巻き込まれることが必至です。いくら修羅場を察知しようにも修羅場が多くて避けることは容易でありません。
また、平時に比べ避ける行為は他社への負担を増すことが明白となり、なかなかそういう行為を許してくれる雰囲気でもありません。

 見方を変えれば、数多くの修羅場を抱える合併は経験を積むまたとない機会ですし、短期間でたくさんの経験を積むことも可能にします。 もう少し良い点について具体性を加えますと、「出来ない」「無理だ」「知らない」「わからない」と思っていた事が出来るようになり、わかるようになるのです。

 合併を自身に有益な経験を積む機会を数多く提携してくれるまたとない機会と捉えてはいかがでしょうか?
きっと合併に対する見方、望み方が変わり、前向きになれるのではないかと確信しています。


(Kawashima)